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特別企画 History of Char 1955~2015  デビュー前から還暦イヤーとなった2015年までの全てを語る

特別企画 History of Char 1955~2015 

デビュー前から還暦イヤーとなった2015年までの全てを語る

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《History of Char 1955~2015》
Special Interview Part.3 ~Histry of 1978-2015~
インタビュー/文:内本順一

h.honda

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今年、デビュー40周年を迎えるChar。その長いキャリアを紐解くロングインタビューの最終回をお届けする。前回はアマチュア時代の話から、プロデビューして芸能活動を行なっていた頃までの話を紹介したが、今回は日本のロック史に名を残すあの伝説的なバンド、JOHNNY,LOUIS&CHARの結成秘話からスタート。さらにBAHOについての話や、昨年のフリーライブの話まで、最終回に相応しい濃厚さで迫ってみた。

――デビューから2年ちょっとは歌謡界でも活動されたわけですが、そのあたりで見切りをつけ、そしていよいよJOHNNY,LOUIS&CHARを結成することになるわけですね。

そうそう。

――ジョニー(吉長)さんと加部(正義)さんのことはいつ頃から知ってたんですか?

もともとジョニーとは、オレがひとりでデビューするってなってアメリカに行く前に、一緒に遊んでた時期があってね。「今度デビューすることになるんだけど、一緒にやんない?」って相談したら、ジョニーはジョニーで、ジョー(山中)が新しいバンドを作るってことでそっちに誘われてるからって。オレは一回断られたの。で、マーちゃん(ルイズルイス加部)はオレがアマチュアのガキの頃から遊んでくれてて、知り合いとかに「このコ、ギターうまいんだよ」とか言ってくれてて。オレはグループサウンズのなかでもカップス(ザ・ゴールデン・カップス)が特に好きだったし……ほかのバンドと違ってカップスはリズム&ブルーズをやってたんだよ。それは横浜で兵隊相手にやってたからだけど、ジェイムス・ブラウンもサム&デイブもブルースもやっててね。で、そこのベースのひとはギターよりも指が早く動くんだなってビックリしながら観てて。それがマーちゃんなんだけど。あとから聞いたら、最初はギターだったらしくてね。

――加部さんとジョニーさんは、以前から接点はあったんですか?

少しはあったらしい。けど、ジョニーが西のほうでハーフだけでバンドを組んでた時期にマーちゃんとはすれ違いだったらしくて、だからオレがそのふたりを繋ごうって思って。で、ジョニーには一回断わられたけど、「いつかジョニーと一緒に」ってマーちゃんに言ってたんだよ。

――その後、Charさんは2年ほど芸能活動をされるわけですが、それに疲れてきた頃に、もう一度ふたりに声をかけた。

ところがマーちゃんはその頃、行方不明だったんだ。ジョニーは(金子)マリちゃんとバックスバニーをやってたし。で、オレがアイドルっぽいことをやってた頃の最後のツアーのバックをゴダイゴがやってたんだけど……。

――僕、それ、観てますよ。

ホント? 武道館でやったやつ?

――はい。Charさんがクレーンに乗って登場して。

そうそう。あれは怖かったなぁ(笑)。あのあとゴダイゴは火がついて、ミッキー(吉野)は「Charのおかげでいい入口を作ってもらった」って言ってくれたんだけど、そのときに「そういえばマーちゃん、シスコから帰ってくるよ」ってミッキーが教えてくれたの。オレは、マーちゃんは死んでるって聞いてたから、「ええっ?! マーちゃん、生きてたの?! シスコにいたの?!」って驚いてね。それですぐに連絡して「ベースやってよ」って言ったら、「オレ、ベース持ってないよ」って(笑)。「わかった、じゃあ用意するから」って伝えて。

――ははは。で、そうしてJOHNNY,LOUIS&CHARが集まったのが1978年ですよね。

まず活動の準備のために3人で合歓の郷で合宿して、そこでいろんな実験をしたんだけど、そのあとオレがちょっとした警察事件を起こしちゃって、四面楚歌になってなんにもできない時期があってね。

――それから久々に観客の前に姿を現した復帰ライブも、僕、観てるんですよ。カルメン・マキさんの野音のライブで、最後にCharさんが突然ステージに登場して。

そうそうそう。復帰ライブってことではなかったんだけど、あれを復帰にしちゃったんだよね。で、マキちゃんから「勿体ないから、ちゃんと活動しなよ」って背中を押してもらって。そのあとマキちゃんのツアーでもバックを少しやったんだけど。

――そしていよいよ<FREE SPRIT>(1979年7月14日に日比谷野音で開催されたJOHNNY,LOUIS&CHARのフリーコンサート。のちに限定盤ライブLP『FREE SPIRIT』として作品化された)ですよね。

そう。マーちゃんとジョニーはオレの回りのほとぼりが冷めるまで待っててくれたんだ。だからそこまで1年近くリハーサルもやってたし、アルバムの構成も既にあったんだけど。

――『FREE SPRIT』はほぼ全曲、あのライブで初披露された曲でした。

うん。アンコールは「Shinin’You,Shinin’Day」をやったけど、それ以外は人前でやるのが初めての曲だったし、当たり前だけど聴く人にとっても初めてなわけで。客席に「Char」って描いてあるハチマキをした女の子がいたんだけど、その子の顔がどんどん曇っていって、終いには泣きだしちゃったのが見えるんだよ。「私の好きなCharじゃない…。なんか怖い番長グループに入っちゃった…」って思ったみたいで(笑)

――私のアイドルだったひとが、あんな髭を生やしちゃって‥…って(笑)

そうそう。オレとしては、なんか自分がロックをポップにしちゃったというような反省もあってね。本来のロックってのを、3~4年本気出してやってなかったなぁっていうのがあって。それでJOHNNY,LOUIS&CHARを始めたわけ。(佐藤)準とクロスオーバーみたいな方向を突き詰めるのもありだったんだけど、やっぱりクリームとかジミ・ヘンドリックスとか、トリオで王道ロックをやるっていうのが一番好きだったし、スモーキー・メディスンの前に16歳でGAS MASKっていうトリオのバンドをやったりもしてたし。トリオで王道のロックをやるというJLC(JOHNNY,LOUIS&CHAR)の構想は、実は結成する5~6年前から持ってたものなんだよ。で、あのふたりはオレより半回り年上で、オレには出せないものをあのふたりががっちり出してくれて。だからオレはあのふたりとクリームをやろうとは思わなかったし、ヘンドリックスをやろうとも思わなかった。やっぱりいままでにない新しいトリオをやりたいと思ったんだ。

――なるほど。

でもそんな頃にロンドンから友達がカセットテープを送ってきて、「ロンドンで新しい形のトリオが出てきたから、聴いてみ」って。それがポリスだったんだよ。聴いた瞬間、「やられた!」って思ってね。実はその前にマーちゃんとボブ・マーリーを新宿厚生年金に観に行って、衝撃を受けて。マーちゃんと「凄かったねー、なんなのあれ?」って言ってて、まあそんなことがあったから、ボブ・マーリーのアレンジに影響された曲をやろうかという話をしたりもしたんだけど、先にポリスにそれをやられてしまった。だったらオレらはもっと王道のロック寄りのほうで新しいものを目指そうってことになって。

――3人が集まって、自然に出てきた音がああいうものになったんだと思っていたんですけど、そうではなく、試行錯誤して選び取ったのがあの音だったということですね。

そう。マーちゃんはギタリストからベーシストになったひとだし、ジョニーは歌えるし、じゃあふたりでハモれて、いままで世界になかったものを作ろうと思ったんだよね。

――確かに当時聴いてても、王道を踏まえつつ、まったく新しいロックバンドが遂に日本にも現れたという感じがしました。我々の世代はそれを直に体験したわけで。僕を含め、まわりにもJOHNNY,LOUIS&CHARを聴いて人生変わっちゃったという友達が何人かいましたからね。何しろとんでもなくかっこよかった。

いまでも地方に行くと、放送局とか新聞社のお偉いさんが「実はJLCでファンになりまして」って。呑んで酔っ払ってJLCの曲を弾きだしたりとかね(笑)

――でしょうねぇ(笑)。そのくらい、JLCのライブは圧倒的に凄かったですから。

ライブはでも、トリオだからけっこう波があったんだ。3人の波長がピタッと合うのは何回かに一回で。

――僕もあの頃、追いかけるようにしょっちゅうJLCのライブを観に行ってましたが、確かに「今日はとてつもなくやばかったね」っていう日がありながら、完全に噛み合ってないように感じる日もあって、それがまたリアルでよかったんですよね。

いや、ホントにそうだったんだ。同じ曲でもテンポが変わる日もあったし。それによってノリも変わるし。噛み合わない日は全然噛み合わなかった。けど何回かに一度、何をやってもバシっと噛み合うことがあって、その快感たるや。そういうときは何をやってもOKだし、恐ろしくなるぐらいに気持ちがいいんだ。あの快感はほかの何にも代えられない。それがトリオをやめられない理由だったんだよね。でも、その感じがリハの段階できちゃって、本番ではこないこともあったりするし。マーちゃんに「さっきのアレ、凄かったね」って言ったら、「オレ、どうやって弾いたか覚えてないんだよ」って言われたりとか(笑)。

――Charさんにとって、JLCというのはご自身の人生のなかでどういうものだったと思いますか?

うーん。やっぱり自分が有頂天になってたところから一回思いっきり落っことされて、そこからもう一度這い上がっていったときのメンバーであり、バンドだったから。だからこの3人なら何をやっても怖くないっていうのがあったし、それが曲にも反映されてたと思う。あと、JLCを始めてすぐに子供ができて、ジョニーんとこもできて、マーちゃんとこもできて、移動するときには部族みたいにみんなで動いててね。なんかヒッピーの集団みたいに(笑)。

――よく日比谷野音にJLCのライブを観に行くと、開演前に小さな子供たちが会場中を走り回っていて。その子たちが後にバンドを始めてRIZEになるとは思いもよりませんでしたけど(笑)

うん(笑)。だから、もちろん音楽は大切だったけど、家族を持つってこととか、メンバーも家族みたいになっていくこととか、そういうことを含めて人生のなかで大事な時期だったんだろうなと思う。特に最初は手探りじゃん。みんな子供なんか持ったことないし。だからみんなで助け合ってたんだよね。で、JLCのリハーサルはいつも蓮沼にある友達のちっちゃいスタジオでやってたんだけど、子供を風呂にいれたいから6時には終わろうって言って、必ず6時きっかりに終わって池上線で帰っていくっていう(笑)。マーちゃんは蒲田から京浜東北線で横浜に帰って、ジョニーが一番たいへんで五反田に出てからバスに乗って帰ってて、「ごめんね、オレの都合で蓮沼にしちゃって」ってオレが謝ったりして。なんか、そういう思い出のほうが多いかな。

――いい話ですねぇ。そしてJLCは1982年にPINK CLOUDと改名してしばらく活動を続けたわけですが、90年代に入るとCharさんはBAHOを始め、続いてPSYCHEDELIXもスタートさせました。PSYCHEDELIXに関しては、JLCを超えたいみたいな意識が働いたりもしてたんですか?

それはないよ。やっぱりJLCはJLCでしかないし、PSYCHEDELIXはPSYCHEDELIXでしかないわけで。誰かとやるときにはそのひとの個性とどうぶつかり合って、自分のなかで出しきれてないものをどう出すかっていう、それに尽きるからね。もちろんマーちゃんとジョニーは独特のものがあったし、あのふたりじゃないと出せない音、出せないグルーヴがあった。それを別のメンバーと出そうというのは絶対無理だよ。それはセックスと一緒でさ。もう一回同じものをやろうと思っても二度とできないけど、だからこそあの頃にああいうふうにやれてよかったと思うし、それはPSYCHEDELIXにしてもそうだしね。

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