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特集 DAVID BOWIE is 大回顧展「DAVID BOWIE is」の魅力を紹介

特集 DAVID BOWIE is

大回顧展「DAVID BOWIE is」の魅力を紹介

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《インタビュー》
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アートとしてのロックの可能性を追求したデヴィッド・ボウイ。そんなボウイをデビュー当時から追いかけ、大きな影響を受けたのが土屋昌巳だった。日本のニュー・ウェイヴを代表するバンド、一風堂で世界進出を果たした土屋は、その後、ジャパンのサポートをはじめ、イギリスのロック・シーンとも交流を深めながら独自の美意識を貫いてきたが、そこにはボウイという大きな指標があったという。そんな土屋から見たボウイとは、どんなアーティストだったのか。ラジオでのインタビューを再構成して、土屋にとっての『ボウイ・イズ』をここに紹介。(インタビュー/文:村尾泰郎)

ーーデヴィッド・ボウイを初めて聴いた時、どんな印象を持たれました?

ZIGGY僕が大学に入った年、70年くらいにボウイを初めて知って、ずっとリアルタイムで聴いてきたんですけど、決定的だったのは『ジギー・スターダスト』かな。もちろん、その前の『スペース・オディティ』も聴いてたんですけど、『ジギー・スターダスト』は衝撃でしたね。運命的というか。そのちょっと前は、キング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』ばっかり聴いてましたが、『ジギー・スターダスト』が出てからは、ずっと『ジギー・スターダスト』を聴いてました。

ーー音楽漬けの日々だったんですね。

もう、〈漬け〉どころの話じゃないです。音楽しかない日々でしたね。

ーーボウイがデビューした頃といえばビッグスターがひしめきあっていましたが、そんななかでもボウイの個性は際立っていました?

ボウイはビートルズも好きだったと思うし、同い年のマーク・ボランのこともすごく意識してたと思うんですよ。でも、ボウイはビートルズもTレックスもやっていないことをやろうとした。〈自分らしくあれ〉っていうのがボウイらしいところで、それが独自のスタイルを生み出した。その集大成が『ジギー・スターダスト』だと思うんですよね。強力なロック・アルバムなんだけど、これまで聴いたことない音楽で。その頃、ビートルズが終っちゃったり、ジミ・ヘンドリックスやクリームが出て来たり、いちばん大きかったのは(レッド・)ツェッペリンでしたけど。

ーーそういうバンドと比べてもボウイは異質ですね。ブルースからの影響も感じさせないし。

そう。ツェッペリンのロバート・プラントにしても、フリーのポール・ロジャースにしても、(イギリスのロック・シンガーは)ブルース然としたシンガーじゃないですか。ナチュラルに、純粋にロック・サウンドのなかで歌う人達が多いなかで、ボウイはその正反対のことをやろうとしたわけですよね。着るものから動き方からなにから。

ーーいろんなカルチャーを吸収しながら。

まず、ボウイが71年にアンディ・ウォーホルとルー・リードに会ったっていうのは、ものすごい大きいと思いますね。ボウイはルー・リードをものすごい尊敬してたし。ルー・リードは音楽的教養がある人だけど、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムが象徴的するように、やってる音楽はボロボロじゃないですか。そこがアートなんですよね、未完成ってことが。でも、最初の頃のボウイは完成されたものを目指していたと思うんですよ。だから、〈未完成なものこそ芸術だ〉っていうことをルー・リードとアンディ・ウォーホルから学んだんじゃないかと思います。

ーーそして、アンテナを立てながら、いろんなものからヒントを得て、時代ごとに自分をチェンジしていきますよね。

もう、〈すごい!〉の一言ですよね。ボウイは次々と行動を起こしていった。要するにライヴですよね。それがまず念頭にあったと思うんですよ。ボウイがデビュー・アルバムを67年に出すんですけど、あのルックスがあればもっと注目されても良かったと思うんです。でも、運悪くというか、同じ年にビートルズが『サージェント・ペパーズ』を出したり、ジミ・ヘンドリックスが衝撃的なデビューを飾ったりする。そういうのを見てボウイが何をしたかというと、リンゼイ・ケンプに弟子入りしてパントマイムの学校に行ったんですよね。彼は〈どうやって自分がステージに立つべきか?〉というのを考えた。そこが他のアーティストと決定的にちがうところですよね。アルバムがヒットしちゃったから慌てて舞台作って、ダンサーを付けて振り付けやりましたっていうのとわけが違う。最初から自分の世界を作り出していて、どうやったら自分が輝くのかを考えていたんです。

ーーグラム期を経て、70年代後半になるとボウイはベルリンに向かいます。ベルリンでブライアン・イーノやロバート・フリップと制作された『ロウ』『ヒーローズ』といったアルバムは、後のニューウェイヴ・シーンに大きな影響を与えますが、土屋さんはリアルタイムで聴かれていて、どう思われました?

LOWHEROES〈来たな!〉っていう感じですね。予測はしてました。イーノとロバート・フリップは『ジギー・スターダスト』をやってる頃から当然友達だったと思うし、お互い意識してると思うし。ある意味、満を持してっていう感じ。あの頃、イーノが、ハルモニアとかラ・デュッセンドルフとか、あの辺の(クラウト・ロックの)シーンに入れこんでいるのを、ボウイは〈何やってんだろう?〉って感じで見てたと思うんですよ。それで自分もガッと入っていった。でも、ベルリン時代は彼の人生のなかでは最悪の時だったらしくて、そういう時こそ素晴らしい作品が生まれるんですよね。音楽は特にそうなんですけど、エッジのエッジまで追い込まれたときに、その人のほんとの姿が見えるし、ものすごい力が出る。余裕があるうちはダメなんですよ。僕は作品として、ミュージシャンとしてのボウイの頂点は『ロウ』と『ヒーローズ』だと思いますね。

ーー土屋さんも数年後に一風堂でベルリンに行かれますよね。

ボウイが使ったハンザ・スタジオにね。ボウイが『ヒーローズ』を、そして、イギー・ポップが『イディオット』を録ったスタジオに行きたかった。曲なんてできてなかったけど、あそこで録りたかったんですよ。その後に加藤(和彦)さんが『うたかたのオペラ』のレコーディングに来られたんです。加藤さんは日本人でハンザ・スタジオに来るのは自分が最初だと思ってたそうなんです。それでハンザ・スタジオって1階がレストランなんですけど、加藤さんがそこに入ったら、ドイツ語のメニューがあって、その下に全部日本語が書いてある。〈これ何?〉って加藤さんがスタッフに訊いたら、〈実は何ヶ月か前に日本のバンドがレコーディングしていて……〉って訊いて、「なんだ、そいつら!?」って怒ったらしい(笑)。僕らがイタズラでドイツ語のメニューの下に適当なことを書いてたんですよ、〈海老餃子〉とか。そんなメニューないのに(笑)。後で加藤さんとVITAMIN-Qで一緒になった時、加藤さんにしみじみ言われました。〈あの時は悔しかった〉って。

※VITAMIN-Qのインタビュー(2008.12)はこちら

 

ーー自分の知らないバンドに先を越されたっていうのが悔しかったんですね。当時は土屋さんもドイツのシーンが気になっていたんですか。

気になってました。向こうのスタッフに頼めば、クラウス・ディンガーとかに会えるかもしれないと思ったんですけど、誰も知らないんですよ。ドイツでもマイナーな存在で。そこにイーノは目をつけていた。そのことにボウイはびっくりしたんじゃないかな。しかも、彼らのサウンドはカッコいいしね。セックス・ピストルズのサウンドなんて、完全にノイ!のファーストですからね。

ーーベルリンでサウンドを先鋭化させていったボウイですが、80年代にポップスターになっていきます。そのあたりの変貌ぶりはどう見ていました?

嫌でした(笑)。もちろんアルバムは買ってましたし、影響も受けましたけどね。今度の『★』を除けば、一番売れたのは『レッツ・ダンス』ですもんね。それでもまだ一位にはなってなかった。二位なんですよね、アメリカで。でも、結果的にボウイの一番売れたアルバムになった。『レッツ・ダンス』が出た時は盛り上がって真似してたんですけど、最も嫌いなアルバムですね(笑)。なんか(プロデューサーの)ナイル・ロジャースが合わないのかな。ナイル・ロジャースって〈今の時代はこうやれば売れる〉っていうのが、ほんとにわかってたプロデューサーなんです。だから、僕らみたいに〈こうやったらカッコいい〉っていうのと〈こうやれば売れる〉っていうのとは別だっていうのを、ちゃんとわかってて。僕らはカッコいいけど売れないんですよ、見事に(笑)。

ーー『レッツ・ダンス』もしっかり売れてしまったわけですが、そのために次をどうするのか、ボウイも悩んだんじゃないかと思います。売れるものを作りたいアーティストではないですし。『レッツ・ダンス』以降のボウイは、どのようにご覧になっていました?

迷いがあったことは確かでしょうね。でも、何かをやらなきゃいけないっていうアーティストとしての責任感を感じていたんじゃないでしょうか。それでティン・マシーンを結成したりして。普通の人には作れないアルバムだけど、僕にとっては、そんな衝撃的な作品はありませんでしたね。

ーーでは、土屋さんが「ボウイが帰ってきた!」と感じたのはいつ頃ですか。

『ネクスト・デイ』ですね。

ーーかなり時間があきますね。『ネクスト・デイ』を聴いた時の印象はいかがでした?

THENEXTDAY_2013大動脈瘤かなんかで生死を彷徨ってたじゃないですか。だから、肉体的にもう作品を作ることはできないんじゃないかと思っていたので驚きましたね。それで『★』みたいなアルバムも想像していたら、音がわりと今っぽい。ドラムの音なんて、わざと歪ませたりしてね。今の人達が聴いて〈良い音だ〉と思うような音処理をやっている。つまり、サービスをしているんですよ。それに驚きました。まだ、この人はサービスするのか!って。別にもういいじゃん、そんなことしなくてもって思うんですけどね。本人のなかには〈まだやれる!〉っていう想いがあったのかもしれないですね。実際、その後に『★』を作れたわけだし。

ーーでは、『★』を聴いた時の感想は?

もう、完全に悟ったなって思いました。僕らの周辺で、ボウイは癌らしいっていう噂はあったんです。だから、また新しい作品を作ったことにまずびっくりして。それと、やっぱり、ものすごいセンスだなって。肉体は弱っても、センスっていうのは衰えないんだなって思いました。それが超天才たるゆえんというか。

ーー『ネクスト・デイ』から、またガラッと変わったサウンドですよね。

カッコいいですもん。ほんとにカッコいい。で、わざとジャズ系の人達を呼んだのも、すごくわかる。気がついたら自分(ボウイ)のまわりにいるミュージシャンって、ほんとに超A級の人たちばっかりじゃないですか。要するになんでも出来ちゃうわけですよね。で、そういう人たちに〈ちょっとここ、ジャジーにやってよ〉って言ってもやれちゃうだろうけど、あえてそれは全部オミットして、ジャズの人たちに思い切りロックっぽくやってもらった。その分野が得意な人達にやらせて〈どうだ!〉っていうのは、あまりやりたくなかったんでしょうね。そこで肝心なのがトニー・ヴィスコンティを呼んだっていうことなんですよ。

ーーというと?

Blackstar_2016いかに彼がボウイにとって片腕以上の存在だったかっていう。ヴィスコンティの追悼のコメントで〈とにかくボウイが破格の天才だったのは確かだけれど、ただ僕らにはいつも彼に向かう準備が出来てなかった〉って言ってて。その〈準備が出来てなかった〉っていうのが泣けるんですよ。やってあげられなかったんでしょうね、ボウイが〈こうしたいんだ〉っていうことを。それは無理ですよ、絶対。だって、芸術家である以上、絶対自分の能力より理想のほうが遥か上にあるわけで。だから多分、ヴィスコンティがどこまで出来るかっていうのを、ボウイは絶対知ってたと思うんですよ。ボウイが〈こういうことをやりたいんだ〉って言った時に、ヴィスコンティは120%頑張って、いろいろミュージシャンを探してきて音も作るんだけど、ボウイの理想の音はその100倍ぐらい上にあったと思うんですよ。それをヴィスコンティ自身も知ってて、〈準備が出来てなかった〉っていう言葉を使ったっていうことに泣けるんですよね。

ーー悔しかったんでしょうね。『★』は歌詞もいろいろ物議を醸し出していますが、歌詞についてはどう思われますか。

どの曲も素晴らしいですよね。ボウイは本音を言っていると思います。“ダラー・デイズ”っていう曲に〈It’s nothing to me, It’s nothing to see〉っていう2行があるんですよ。もう、これがすべてですね。〈意味なんかないんだよ、見るものなんかないんだよ〉。ありとあらゆることをこれだけやった人が、最後にこんなことを言えるなんてすごいですよね。

ーーデヴィッド・ボウイがたどり着いた、ひとつの境地なんですね。

〈It’s nothing to see〉って、悟りなんじゃないですか。まさに諸行無常ですよ。ボウイは60年代に仏教にのめり込んでいるんですよね。ジョージ・ハリソンがインドに行ったりして、当時のブームだったっていうふうに言う人もいるけど、ボウイに場合、そういうレベルではなかったんじゃないかなって思いますね。

ーーお坊さんになろうと思っていたらしいですね。

それが日本の仏教だったというのが興味深くて。そうじゃなかったら、〈It’s nothing to see〉なんて平然と歌えないですよ。『ジギー・スターダスト』に入っている〈ファイブ・イヤーズ〉なんて、〈もう、あと5年しかない〉って24歳の若さで歌ってるし、〈ロックンロール・スイサイド〉では〈lived too long〉、〈長く生き過ぎた〉って歌ってる。でも、当時のボウイは自分が40歳とか50歳になることが信じられなかったんでしょうね。だから、69歳まで生きたっていうのは、24歳のボウイから見れば超長生きなんじゃないですかね。

ーーなるほど。今の寿命で考えるとまだ若い気もしますが密度の濃い人生ですよね。ちなみに土屋さんはボウイに会ったことはあるんですか?

ないです。見たことはあるんですけどね。ロンドンにノッティングヒル・ゲートっていうオシャレな場所があるんですけど、そこの通りを歩いているのを見かけたんです。びっくりするくらい普通で、ゴム草履みたいなの履いて歩いてましたね(笑)。でも、もっと残念な話があって。ジャパンのコンサートをハマースミスオデオンでやった時に僕も参加したんですよ。それで映画の『ジギー・スターダスト』でボウイが使っていた楽屋の角の一角を僕は使いたくて死守してたんですけど(笑)、そのコンサートをボウイが観に来たらしくて。でも、ゲストリストに名前が入ってなかったたんです。来てくれるかもしれない、っていうのは(デヴィッド・)シルヴィアンの耳には入っていたんですけど、リストに書かなくてもボウイなら入れるだろうと思ったんですよね。

ーー誰でも知ってますもんね。

でもね、向こうはリストに載っていなかったら絶対ダメなんです。それでボウイを帰しちゃった。

ーーええっ!

初日に来てくれたのに。それでシルヴィアンがものすごく怒ってね。でも、セキュリティの人達はプロ意識が高いというか、自分の仕事をやり遂げただけだから責められない。〈リストに載っていなければチャールズ皇太子が来ようと入れられない〉って言われて。

ーー残念ですね。でも、その時、ボウイが観に来ていたら、土屋さんとしては演奏どころじゃなかったのでは。

ですね。ハマースミスオデオンってそんなに大きいホールじゃないですから。一人一人、客席の顔はわかるしね。

ーーボウイと目が合ったら緊張しますよね。最後に土屋さんから見て、一言で言うとボウイはどういう人ですか。

夢の人ですね。もう憧れを通り越しちゃってます。カヴァーなんか絶対出来ないし、共演なんて考えられない。

ーーカヴァーの話が来てもやらない?

絶対やらないです。みっともないですよ(笑)。

ーー土屋さんにとってボウイは別格中の別格の存在なんですね。

〈あの人から一体何を学んだんだろう?〉って考えると、〈いま自分は何を優先すべきか?〉っていうことなんですよね。物事って最終的に二者選択になるじゃないですか。曲を作る時なんかまさにそうで、アイデアは大体、2つぐらいに絞られる。コード・チェンジひとつにしても〈どっちがいいんだろう?〉っていう時に指標になるのがボウイなんですよ。〈ボウイだったら、どっちを選ぶんだろう〉って今も考え続けてます。

(インタビュー/文:村尾泰郎)


 

土屋昌巳さんが選んだDAVID BOWIEの1枚
santamonica72
『Live Santa Monica 72』
生々しいんですよ。実にこれに尽きる。ジギーになる前の人間なんですよ。そしてミック・ロンソンの演奏も素晴らしい。これほどボウイの息遣いがわかるライブ盤は他にはありません。(土屋昌巳)

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