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特集 小坂 忠 『CHU KOSAKA COVERS』Special Interview デビューから50年を語る

特集 小坂 忠

『CHU KOSAKA COVERS』Special Interview
デビューから50年を語る

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リリースパーティー迫る!!
『CHU KOSAKA COVERS』Release Party
12月19日(月)18:30開場/19:00開演  東京・品川プリンスホテル クラブeX
チケット:¥7,000(税込)全席指定
出演:小坂忠/小原礼(ベース)/鈴木茂(ギター)/佐橋佳幸(ギター)
Dr.kyOn(キーボード)/屋敷豪太(ドラムス)/Asiah(ヴォーカル)/小林香織(サックス)他
(問)キャピタルヴィレッジ 03-3478-9999

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《インタビュー》

去年の〈風街レジェンド2015〉と〈ALFA MUSIC LIVE〉における多数の出演者の中でも、その深みある歌声でとりわけ際立った存在感を残した小坂忠。ザ・フローラルのヴォーカリストとしてデビューしてから今年で50周年を迎え、9月5日には鈴木茂、吉田美奈子、矢野顕子、細野晴臣、中納良恵、金子マリ、曽我部恵一、尾崎亜美、Asiah、松たか子、佐野元春ら大勢のゲストを迎えて、記念公演を行なったところだ。また「自分の50年を支えてくれた名曲を選んで歌った」と言うカヴァー・アルバム『CHU KOSAKA COVERS』も同日にリリース。しなやかにして強靭な歌声そのもので表現を続ける氏の“これまで”と“いま”を訊いた。

 

僕の音楽活動の節目節目に必ず細野(晴臣)くんがいるんですよ。
本当に大事な存在。

──先頃のデビュー50周年記念公演、素晴らしかったですね。ゲストも豪華で、とても贅沢な時間を味わいました。
※東京・渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで開催された
〈小坂忠 Debut 50th Anniversary 〜Let the GOOD TIME’s ROLL〜〉

あんなのはもうできないですね。疲れきって、帰ったらバタンキューでした(笑)。だってあの日はほぼワンステージ丸々リハを通しでやって、それから本番まで40分しかなくて。だから、ぶっ続けで2ステージやったような感じで。

──20数曲歌われましたから、合わせて40曲以上歌ったことになるわけですね。

うん。でも、やってよかった。幸福感でいっぱいでした。みんなに支えられてできた感じですね。

──素晴らしいなと思ったのは、小坂さんがこれまで歩いてきた道がそこに見えたのと同時に、現在の小坂さんの表現がどういうものかがダイレクトに伝わってきたところで。

やっぱり過去ばっかりじゃなくて、フューチャーが大事だからね。

──コンサートは2部構成になってましたが、1部には『ほうろう』の小坂さんと切り離せないゲストの方々が出演され、そのアルバムからの名曲を続けて演奏されました。鈴木茂さん、吉田美奈子さん、細野晴臣さん……。

あれはだから、〈ファースト&ラスト・コンサート〉の再現みたいな感じでね。
※1975年4月から7月にかけて行われた全国ツアー。『ほうろう』のレコーディング・メンバーである細野晴臣、鈴木茂、林立夫、浜口茂外也、吉田美奈子に、佐藤博、ジョン山崎が加わった豪華メンバーで、ソウルレビュー風のショーを展開した。初めて全国のコンサート・プロモーターが連携してツアーを組む試みがなされた点でも、当時としては画期的なものだった。

──〈ファースト&ラスト・コンサート〉のことはけっこう憶えてますか?

憶えてますねぇ。ちょうど僕の『ほうろう』と(鈴木)茂の『BAND WAGON』が同時期に出たので、一緒にツアーしたんですよ。40か所くらいやったかな。なかでも印象に残ってるのは北海道の歌登(うたのぼり)という小さな町でやったコンサート。そこの青年会の会長みたいな人から「北海道に来るんだったら歌登にも来てくれないか」って電話があったの。それで行ったんだけど、まず歌登って地名がいいじゃない?  歌が登るっていう。

──ヒットチャートを登っていきそうな感じがしますもんね(笑)。

でしょ(笑)。だからアルバムのプロモーションには最高だよねってことで。でも当時、町民が3000人くらいで、まだ人間よりも牛とか馬のほうが多かったようなところでね。コンサートをやったのは、町民センターっていう、冠婚葬祭全部をやるようなところ。初めてでしたよ、スリッパ履いてステージに上ったのは。土足厳禁だから。でも、絞りたての牛乳を出してくれてね(笑)。

──はははは。このコンサート・ツアー自体、いろんな意味で画期的なものだったそうですね。

だってまだその頃は誰も全国ツアーなんてできなかったんですよ。地方にもイベンターがいるけど、ネットワークがまだできてなかった。このツアーによって初めてそのネットワークができたんですから。

──だけど小坂さんは、このツアーが苦痛だったとか。

そりゃあ40本もやるとね。消耗も激しいし、人間関係的にもだんだんとこう……。だってまだ東北新幹線もなかった時代ですからね。夜行でどっかまで行って乗り換えて。しかもバンドだけで20人近くいるわけですから。

──和気あいあいなんて雰囲気ではなかった。

うん。あの頃はフュージョンとかが出てきて、そのツアー中、ミュージシャンたちはみんなそういうのを聴いてたわけですよ。みんなどんどんそっちに傾倒していく。僕はといえば、ようやく『ほうろう』で自分の歌というものを見つけられたって感じだったから。そういうところでちょっと孤独を感じちゃってね。

──なるほど。でもそこから41年経って、また林立夫さん、鈴木茂さん、細野さん、美奈子さんら同じメンバーとステージに立つというのは、なかなかすごいことですよね。

やっぱり、ひとつの時代を一緒に過ごしてきた仲間たちだからね。久しぶりでも、会うと時間の流れを超えたところですぐに話せるから。いいですよ、そういう仲間がいるというのは。

──矢野顕子さんとは久しぶりだったんじゃないですか?

相当久しぶりでした。アッコちゃんとは当時もツアーを一緒にしたわけではなく、レコーディングしかやってなかったから。

──『ほうろう』の「つるべ糸」が矢野顕子さんの作詞作曲によるもので(当時の名義は鈴木晶子)、この前のコンサートではその矢野さんと一緒に歌われるという、かなりレアな場面がありました。

あれは貴重ですよ(笑)。緊張しましたけどね。

──矢野さんの歌い方には独特のグルーヴがありますからね。

そうなんですよ。

──それから、なんといっても細野さん。小坂さんと細野さんの関係は本当に特別なものなんだなと、観ていて改めて感じました。

僕の音楽活動の節目節目に必ず細野くんがいるんですよ。本当に大事な存在。

──細野さんのほうがひとつ上なんですよね。

そう、僕が1948年の7月8日生まれで、細野くんが1947年の7月9日。1年違うんです。だから僕の誕生日が来ると、その1日だけはタメになる。その24時間だけ「細野」って呼んでます(笑)。

──あはははは。初めて細野さんと会ったのは……。

ザ・フローラルを解散して、メンバー探しをしていたなかで会いました。
※1966年に結成。ヴォーカルの小坂忠はこのバンドでプロとしての第一歩を踏み出した。68年には武道館で行われたザ・モンキーズの前座とバックを務めた。

──パーティーで会ったそうですね。そのとき松本隆さんも一緒だったとか。みなさん長髪だったんですかね。

僕は長髪だったけど、細野くんと松本くんはまだ長髪じゃなかった。細野くんはアイビーでしたから。マンボズボン穿いてた(笑)。松本くんは松本くんでまた独特でしたね。

──西麻布のバーでは、小坂さんが5万円の入った給料袋をかざして細野さんをメンバーに誘ったそうじゃないですか。

ちょうど細野くんが大学4年で卒業を控えているときで。友達みんな就職が決まってたのに、彼は就職活動をしてなかったから、先が何も決まってなかったんです。そのときに僕が給料袋をかざして誘って。あの時代の5万円といったらなかなかのものですよ。

──細野さんはとびついたわけですか?

そうですよ。エサがよかった(笑)。で、松本くんも一緒にやることになって。松本くんのお母さんは、細野くんに「ヘンな道に誘わないで」って言ったらしいよ。

──はははは。で、そうして始まったのがエイプリル・フールでしたが、短命に終わりました。
※小坂を含むザ・フローラルの3人に、細野、松本を加えて、1969年3月に結成。しかし同年10月のアルバム・リリースとほぼ同時に解散。

当時の仕事ってハードだったんですよ。ディスコのハコで45分のステージを1日に4〜5回やったりするんです。しかも毎日ね。そうすると、どうしても煮詰まっちゃうんですよ。ディスコですから、お客さんからは「こんな曲じゃ踊れねーよ」とか言われるし。当時、新宿にパニックというディスコがあって、そこで演奏してから細野くんと一緒に松本くんの家に行って、朝までレコード聴きながら話をして。そんなことをしてましたね。

──その頃よく聴いてたのは……。

バッファロー・スプリングフィールドとかモビー・グレープとか。それで新しいバンドの構想を話したりとかしてて。

──そこから、はっぴいえんどが誕生したわけですが、小坂さんは参加しませんでした。

一緒にやる流れはあったんですよ。だけど僕が『ヘアー』というミュージカルのオーディションがあるって聞いて受けに行っちゃったんです。でもそのとき細野くん、バックやってたんだよ(笑)。

──本来は、なんで受けに行くんだ?って怒らなきゃいけない立場なのに(笑)。

そう(笑)。あの時代ってすごく面白くて、演劇の世界も映像の世界も実験的で新しいものがどんどん生まれていったんだ。ファッションや広告の世界もね。そういうエネルギーに僕はすごく魅力を感じていた。それで渋谷にあった東京キッドブラザースの常設小屋によく出入りするようになって、彼らが『ヘアー』のオーディションを受けると言うから、僕も一緒に行くことにしたんです。

──そっちのカルチャーのなかにどんどん引き込まれていった。

そう。まさに引き込まれていく感じでしたね。だけど、『ヘアー』がいろいろな問題(大麻所持による逮捕者が出た)で途中で終わっちゃって。先のことなんて考えてなかったから、どうしようかと思ってね。で、日比谷の野音とかで数カ月に1回くらい弾き語りをやったりしてたんだけど。そしたら(『ヘアー』のプロデューサーでもあった)川添(象郎)さんとかミッキー・カーチスさんとかが一緒に新しいレーベルを作るから、そこでやらないかって話をもらって。

──マッシュルーム・レーベルですね。

うん。まだそのときは自分でそんなに曲を作ってなかったんだけど、いいきっかけになるかなと思ってやるようになって。

『ありがとう』
(1971年)

──そこで初めに出したのがソロとしてのファースト・アルバム『ありがとう』(1971年)。“和製ジェームス・テイラー”というような評価をされたわけですが、そういうフォーク的なものが自分のスタイルだというふうには……。

思ってなかったですね。『ありがとう』を出したとき、アコースティック・ギターがメインになっているサウンドだからということでフォーク扱いされたんですけど、それが僕としては全然納得いかなかった。オレがやってるのはフォークじゃないんだけど、って気持ちがあってね。

──もっとモダンなものをやっている意識だった。

うん。だって、ジェームス・テイラーだってフォークって感じではないじゃないですか。あの人もオリジナル・フライング・マシーンってバンドをやってて、それからソロを出したでしょ。彼もフォーク・シンガーという意識でやってたとは、僕は思えない。日本は特に、アコースティック・ギターを使えばみんなフォークと呼ばれる傾向が強かったけど、それが僕はすごく嫌だったんですよ。そしたら当時の「ニューミュージック・マガジン」のフォークのランクで僕のアルバムが2位になってて。“日本のフォークねぇ……”って、そういう感じでした。

──そうした複雑な思いもあってアコースティックでもグルーヴのあるソウルをやれるんだという気持ちにもなり、それを爆発させたのが75年の『ほうろう』だったということですかね。

『HORO』
(1975年)

そういうことです。だってバンドをやってたときは、ザ・フローラルにしてもエイプリル・フールにしても、普段の活動はコピーばっかりなわけですよ。ドアーズなんかをコピーして、自分がジム・モリスンになった気持ちで歌ってた。ところが『ありがとう』を出したらフォークとか言われたりして、自分で自分の歌のスタイルがわからなくなっちゃった。だから、そこから『ほうろう』までは自分の歌のスタイルを見つける旅をしてるような感覚があったんです。オレのスタイルってなんだろ?って。

──それが『ほうろう』で見つかった。

ようやく、これかなと。それを引き出してくれたのも細野くんなんですよね。

──『ほうろう』は初めから明確なイメージがあって作っていったんですか? それとも、ある意味では偶然の産物的なところもあったんですか?

あの時代だからできたんだろうと思います。だってティン・パン・アレーにしてもみんなまだ20代前半ですからね。当時の音楽制作は、日本だとほとんどスタジオ・ミュージシャンを雇ってなされていた。そういうなかに彼らのような若いミュージシャンがどんどん入り込んでいったことで新しい風が吹いたわけですよ。僕たちがあの頃好きだったのが、マッスルショールズ。あそこのスタジオで作られていく音楽が好きで、ティンパンにしてもああいう音楽集団を目指していたと思うんです。で、僕は僕で自分の歌のスタイルを探しながらやっていて。その両方が『ほうろう』で合わさったというか。

──なるほど。作りながら、これは傑作になるという予感のようなものはあったんですか?

いや、そんなこと考えてもみなかった。でもけっこう制作時間はかかってますね。この頃はよかったんですよ。1枚作るのに時間がかけられたからね。(鈴木)茂なんてギターの1フレーズ録るのに1日かけるんだから(笑)

──こだわりがすごかった。

みんなそうだったね。茂は特にこだわりが強かった。でもできあがったフレーズを聴くと、やっぱりすごく印象的でね。“これしかない”っていうものになってるんですよ。

──いまの小坂さんにとって、『ほうろう』というアルバムはどういった位置づけなんですかね。

ひとつの区切りですね。その前とそれからの、ハッキリした区切り。自分にとって大事なのは、やっぱり何より歌なんですよ。その歌のスタイルを見つけることがひとつの目標だったから。

──でも『ほうろう』でそれを見つけて、それで満足したわけではなく、またしばらく葛藤する日々が続いたそうですが。

うん。思うにティンパンの連中はサウンド・クリエーターなんですよね。で、僕もあるときまでは同じように考えていた。だけどあるとき、わかったんだよね。サウンド・クリエーターは自分の道じゃないなって。やっぱり僕はシンガーなんだと思ったわけ。だからもっと歌を大事にしてやっていこうとハッキリ思うようになって。それでクリスチャンになったんです。76年のことですね。

──77年には『モーニング』という名盤を出されてますが、クリスチャンになってからは当然音楽活動もゴスペルのほうに集中していきます。「自分ってなんだろう、自分の歌ってなんだろう」と探し求める気持ちの、そのひとつの答えがゴスペルにあったわけですか?

『モーニング』
(1977年)

そうですね。気づけなかったことに気づけたというか。あのね、昔は僕、こんなにしゃべれる人間じゃなかったんですよ。なんでかっていうと、言葉にする前に自分のなかで自問自答が始まっちゃうわけ。言葉にして出す前に自分のなかで完結しちゃうから、外に言葉が出ていかない。けっこう苦労したんですよ。対面恐怖症というのか、他人との会話がうまくいかなくなっちゃって。それが大きく変わったのは、クリスチャンになってからなんです。他人にどう見られてもよくなった。そしたら素直に思ったことを言えるようになったの。

──ひと言で言うなら、素直になったと。

そう、素直になったの。いま、すごい素直でしょ?

──あははは。はい。

自分を縛るものがなくなったんだよね。あと、昔の僕は人を楽しませようとか、そういうサービス精神がほとんどなかった。好きな人だけ聴いてくれればいいというような感じだった。いまは全然違う。いまは、せっかく来てくれたんだから、楽しんでもらえるといいなぁって。そういう気持ちで歌ってますから。これは大きな変化ですよ。

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