MUSICSHELFトップ > インタビュー・プレイリスト > インタビュー > 市川セカイ

市川セカイ 愛は生活の中にある、歌も生活の中にある── 市川セカイ、ロング・インタビュー

市川セカイ

愛は生活の中にある、歌も生活の中にある──
市川セカイ、ロング・インタビュー

(ページ:1/4)

人の心に宿るさまざまな感情を掬いあげて歌にする、シンガー・ソングライター、市川セカイの個性と創造性。そこにはいつも日常にこぼれている忘れかけた何かを想起させてくれるやさしさがある。普遍的な愛を音にしたという4曲入りCD『愛は生活の中にある』でも、メロディーの美しさと詩的な世界観を見せながら、日常と愛情を見事に表出させている。弾き語りで見せる穏やかな空気感に包まれた作風がハートウォーミングな気分にさせてくれるのだ。そんな彼の素顔を知りたいと思い、今回、ロング・インタビューを敢行。市川セカイの歌に込めた想いとは……。

──市川さんはそもそも4人組バンドでメジャー・デビューしたんですよね。しかもCharさんのプロデュースで。

そうです。MANA SLAYPNILE(マナ・スレイプニル)という覚えにくい名前のバンドだったんですけど(笑)。メジャー・デビューしたのは2006年で、結成して1年ぐらいだったんですよ。きっかけはオーディションだったんですよね。僕は地元が高知県なんですけど、その時にバイトしていたTV局のカメラマンの方にオーディションの話を聞いて「出てみます」と。そしたらそのオーディションで優勝したんですよね。で、そのオーディションの審査委員長がCharさんだったんですけど、それでCharさんをプロデューサーに迎えてデビューしたんです。

──もともとプロ志向だったんですか?

はい。だけどあの時はプロがどういうものかわからず、漠然と“音楽でメシが食いたい”ってところから始まっているので、それはよくありがちな若者の夢だったという感じですね。

──Charさんから学んだことって?

音楽の価値観が変わりましたね。それまでは音楽を勉強することもほとんどなかったし、基本的には初期衝動だけでやっていたので。僕らのバンドは曲も多作な方ではなかったし、僕自身このバンドを10年続けるにはどうしたらいいんだろう?と考えたりしていたんですけど、なかなか見えてこなかった。だけど、それが日本最高峰のギタリストであるCharさんの音楽に触れて、ステージを観て、音楽の価値観そのものが変わったんですよ。やっぱりロックのルーツをしっかりと学んでおくべきだなと。ルーツがないと一生音楽ができないなと思っちゃったんですよね。で、Charさんから言われた“昔のロック”をたくさん聴いたりするようになったんです。

──昔のロックって60年代や70年代のロックですか?

ですね。Charさんの言い方としては「ロックが生まれてまだ50年、60年しか経ってないんだから、それくらいだったら全部聴けるだろ?」って感じだった(笑)。

──さすがCharさん、カッコいいですねぇ(笑)。

ええ(笑)。で、最初に「お前らポリス好きだろ?」って言われて。前のバンドの音楽性はポリスに近かったので。でも、僕らは当時、ポリスを知らなかったんですよ。おそらくポリスを好きなミュージシャンが好きで、という感じだったんでしょうけど。Charさんから「そんな音楽をやっているのに、お前らポリスを知らないのか?」って言われて。そこからいろいろ聴き始めたんです。ザ・ビートルズはもちろん……あ、(ローリング・)ストーンズは通ってこなかったけど、ボブ・ディランとかイーグルスとか、いろいろと。基本的に綺麗なメロディーを作る人たちの作品を聴いていました。

──そういえば以前、本サイトのプレイリストで「僕の世界を創造した音楽」と題して10曲挙げていましたよね。ボブ・ディランやオアシス、ジョン・デンバー、松任谷由実さんとか。

ええ。挙げさせてもらった10曲は自分の体の中にしっかりと刻まれているものですね。

──音楽に対する価値観が変わったことが今の市川セカイの音楽を形成していく上で役立ったというか?

ですね。ルーツをいろいろと聴いていくうちにルーツだけでもダメだという考えになったんです。その上で自分の作るメロディーのバックボーンにルーツがあるのが一番いいと思ったんですよ。そこに辿り着いてからその価値観はブレてませんね。

──そう思ったのはいつですか?

東京に出てきてから2、3年経ったあたりですね。

──で、話が前後しちゃいますけど、その後、MANA SLAYPNILEは解散してしまうわけですけど、実働年数はホントにわずかだったんですよね。

3年ぐらいですね。途中でギターが抜けて3人になってしまったので、新しいギターを入れてやろうと思ったんですけど、なかなかしっくりこなくて。それに当時、僕らは地元で活動していたんですけど、僕だけが「東京に行きたい」とずっと言い続けていて、他のメンバーは地元で活動したいと言ってたんですよね。何だかそういうところからもちょっとずつ亀裂が生じ始めていて「お前らとはやってられない。もっといい音楽をやるためにはお前らじゃなくてもいい!」みたいな(笑)。今考えると、あの頃の僕はだいぶ尖っていたと思うんですよね。

──ちなみに今は当時のメンバーの皆さんとは……。

実はこの間、久し振りにスタジオに入って一緒にセッションしたんですよ。8年経ってようやく……ですよね。僕自身、心残りもあったし、しこりみたいなものもあったし。

──それは良かった。で、市川さんが上京したのは?

2008年12月にバンドを解散して、2009年1月から東京にいました。

──素早い。

(笑)。僕は上京したいとずっと思っていたから、いつでも行けるように上京できるお金を高知で貯めていたので決めたら即決で。単身上京したんですけど、最初にCharさんのマネージャーさんの家に間借りさせてもらったんですよ、その間に住む家とかいろいろ決めさせてくださいってお願いして。

──一番最初に住んだのはどこの街ですか?

神奈川の鷺沼です。全然わからないんだけど、良さそうな街だからいいかなと思って。そしたらすごい坂で。1回家に帰ると外に出て行きたくないくらいの坂で、ホントに苦労しました(笑)。

──なぜそんなことを訊いたかというと、上京した時の街の風景って、これまで育ってきた高知の地元とは違うわけですから、そのあたりが創作的なことに影響を与えるのかなと思って。

ああ……それはあったと思いますね。一番最初に作った歌は「月をめざして」という電車の歌でしたから。僕の中に電車という文化はほとんどなかったので。高知にいた頃、電車なんて2回ぐらいしか乗ったことがなかったから。高知にも電車はありますけど、僕が住んでいたところはだいぶ田舎なので電車が通ってなかったし、移動手段は基本的にはバスか、もしくは原付か車でしたから。だけど、こっちに来てからどこに行くにも電車ばかりじゃないですか。これだけ電車が生活の中に息づいているんだったら、そこにはいろいろなドラマがあるだろうなと思って、こっちに来て最初に書いたのが電車の歌だったんですよね。

──バンド時代と比べてサウンド的なことでの変化ってありましたか?

さっきも話しましたけど、最初の頃はルーツが大事だと思っていたんですけど、その頃はバンドじゃないので自分の好きなように作れるじゃないですか。このサウンドはバンドが不得意だからやれないっていうこともないわけで。そういう意味ではすごく自由に作っていったんですけど、結局はルーツだけじゃ面白くないと思って、そこからはいい歌を書こうと。そこで歌に焦点を当てて書こうとしていた気がしますね。

──歌を主軸にした市川ワールド。

ええ。歌力とギターを聴かせる力。結局そこしかないんだなって。そう思うようになってからは、曲を作る段階ではむしろルーツは考えなくなりましたね。曲を作ったあと、リズムはこうだからこういうリズムがいいんじゃないかとか、この曲はカントリーっぽくしたいからカントリーのギターをつけようかとかっていう価値観で。

──基本的にルーツって自ずと出てくるものですからね。

そうですよね、そう思いました。

前のページ (ページ:1/4) 次のページ