MUSICSHELFトップ > インタビュー・プレイリスト > インタビュー > 特集 吾妻光良

特集 吾妻光良 結成35年目の吾妻光良&ザ・スウィンギングバッパーズ

特集 吾妻光良

結成35年目の吾妻光良&ザ・スウィンギングバッパーズ

(ページ:1/6)

「Never Quit!」

日本では数少ないジャンプ・ブルース・バンドとして絶大な人気を誇る吾妻光良& THE SWINGING BOPPERSが待望のニュー・アルバム『SENIOR BACCHANALS』をリリースした。ライヴ・アルバム『Sweatin’ Ballroom』から4年半、スタジオ録音盤としては『Seven & Bi-decade』から7年ぶりとなる、通算7作目のオリジナル・ニュー・アルバムだ。相変わらずというか、50代も後半に差し掛かってより冴えまくる中年のボヤキ・ネタや甘酸っぱい思い出、茶目っ気のある風刺精神…。そんな歌に込められたユーモアやペーソスがダイナミックにスウィングするジャンプ・サウンドと相俟って、何とも言えぬ人懐っこさを醸し出すスウィンギン・バッパーズの音楽の魅力にじっくり(?)迫った3時間半のインタビュー。ワイン、おつまみの数々以上に吾妻さんと湯川治往さん(レーベル・オーナー兼プロデューサー兼ライヴのパーカッショニスト)のお話、おいしゅうございました。

shelf
(インタビューは2013年10月、高円寺・Balcony Cafe & Bar「SWAMP」にて)

吾妻光良のBlues Playlist

「Everyday I have the Blue」

by B.B.King

from 『Live at the Regal

amazonで購入・試聴する HMVで購入・試聴する iTunesで購入・試聴する

 

――吾妻さんは70年代の半ば頃から妹尾隆一郎さんのローラーコースターや永井隆さんのブルーヘヴンのギタリストとして、ブルースの世界ではすでに知られた存在でしたよね。当時、僕も何度かライヴを観させてもらいましたけど、あの時まだ大学生だったんですね。

そうですね。若かったなぁ(笑)

――けっこう年上の方々と一緒にやっていた。たとえばホトケ(永井隆)さんは今、62歳と言ってたし。

だから5歳年上ですね。妹尾さんにいたっては7つ上。とっくに引退……してないな(笑)

――ギターを弾き始めたのはかなり早かったんですか?

ですね。兄貴の影響でね。兄貴が始めたのが中学1年だから、僕は小学校2年ですかね。弾くと殴られるんですけどね(笑)

――あ、お兄さん(ハード・ロック界の重鎮ギタリスト、ジョージ吾妻氏)のギターを勝手に弾いてた?

そうそう。忘れもしませんよ。初めて弾いたのは『白地に赤く♪』ってやつ(笑)。音楽はもともと好きだったんですよ。親父は電機メーカーに勤めていて、自分でステレオを作って、SP盤を集めてたし、お袋は近所の子供にピアノを教えてたんで、自然に音楽と電機が好きな子供になっちゃった。まんまですよね、何の反逆精神もない(笑)。お兄ちゃんがギターをやれば、僕もっていう。素直な子供だったんですねぇ。

――じゃあ、初めて自分でチョイスした音楽は?

初めて自分で買ったレコードは『隠密剣士のテーマ』。小学校4年の時ですね。そのレコードに馬をムチで叩く音が入っていて、何を勘違いしたのか“うわ~ん、針飛びの音が入ってるよ~”って親父に泣きついたんだよね(笑)

――そんな吾妻少年が、やがてブルースに出会うわけですが。

ちょうど子供から思春期にロックが台頭してきた世代なわけですよ。で、ロックの始まりはブルースだってことを知ってね。クリームもレッド・ツェッペリンも、みんなそのルーツにはブルースがある、と。だから、中学2、3年の時にはブルースは学内で普通に使われる用語になってた。

――ええ~! 本当ですか? 僕は千代田区の中学校でしたけど、ブルースなんて知ってるのはごく一部だったなぁ。港区は進んでたんですねぇ。

みんな洋楽を聴いててね、邦楽聴くなんてバカじゃねぇの? なんて背伸びしてるヤツばかりだった。で、69年から70年にかけて洋楽のアーティストが来日し始めるんですよ。B,S&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)とかね。それで、69年の秋にジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズが来日して田園コロシアムでライヴをやるっていうんで、もう学校中が沸き立ったわけ。ようやくブルースのミュージシャンが来る! って。ところが、私の同級生にアンドレって男がおりましてですね、どこで聞いたんだか『吾妻よぉ、ジョン・メイオールっていうのは偽物らしいぞ』って言うわけですよ(笑)

――黒人のブルースに影響を受けた白人ブルース・マンだ、と。それを“偽物”って言っちゃった。

ね? で、『来年になるとB.B.キングっていう本物が来るんだぜ』って言うわけよ、アンドレが(笑)。でも、こっちは何が偽物で何が本物かわかんないからさ、そう言ったら『じゃあ、これを聴け』って貸してくれたのがB.B.キングの『ライヴ・アット・ザ・リーガル』だったんだよね。

――それがブルース初体験。いきなり名盤と出会ったわけですね。

そう。だけど、すぐに『うわっ、スゲぇ』と思ったかというと、そんなこともなくて。ただ、何かちょっと違うなっていうのは分かりましたね。ギターが上手いのはもちろんだけど、メロディーや歌の感じが何かちょっと違うな、と。で、アンドレの話に戻るんだけど、じゃあどっちのライヴに行く?って話になって、みんなはジョン・メイオールだけど、俺たちは本物のほうだろうってことで、B.B.キングの来日公演に行ったんですね。なぜかアンドレは当日、来なかったけど。

――B.B.キングの初来日、観てるんですね。羨ましい。サンケイホールでしたっけ?

そう! サンケイホール。1970年の2月。寒いなか、ひとりでトボトボと行きました。B席1,500円! お小遣い貯めてね。前座が成毛滋さん、つのだ☆ひろさん、PYG。あともうひとりいたけど誰だったかな。でもB.B.キングの演奏は今でもよく覚えてる。すごいメンバーでね。ドラムが有名なソニー・フリーマン、ベースが弟のウィルバート・フリーマンで、ホーン・セクションも5管ぐらい。もう時効ですけど、こんなでっかい英会話用のカセットを持ち込んでね。あの時期のB.B.キングを観たっていうのは、ちょっと自慢ですね。で、なるほど、これがブルースかと思ったわけです。

湯川(治往)「そのテープを最近、聴いたら、変な子供の声が入ってたって言ってましたよね」

誰だ、この子供は?と思ったら俺の声だった。声変わりする前の(笑)

――それで一気にブルースに傾倒していった?

いやぁ、それほどオトナじゃなかった。ロックと並行して、ちびちびとブルースも聴くように。まぁ、B.B.の次はフレディ・キング、その次はアルバート・キングって3大キングから始まって、少しずついろんな人のレコードを聴いていって……。

――完全にハマったわけですね?

浪人の頃には、もう顔の黒い人のレコードしか買わなくなってた(笑)。最初は無理矢理というか、背伸びして聴いてるようなところがあったんだけど、だんだんブルースのいいところが分かってくるんだよね。ギターだけじゃなくて、歌の良さが分かったのはジョン・リー・フッカーですかね。あぁ、この節回しとか歌詞の感じがすごく気持ちいいんだなって気付いたんだね、犬のエサをやってる時に(笑)。“ナイト・タ~イム・イズ・ア・ライト・タ~イム”(と歌う)、う~ん、いいな、と。そうしてブルースにハマっていった。

――同時にバンドもやっていたんですよね?

いや、浪人の時はバンド断ちしてたんですよ。現役の時、受験した大学に全部落ちて、家にあったオールドというウィスキーを半分呑んだらえらい二日酔いになって、自己嫌悪に陥り、こんなことじゃダメだ、と思ってね(笑)。もちろん高校の時はやってましたけどね。

――どんな感じでやってたんですか?

音楽サークルでやってたんですけど、夏の間ひたすらギターを弾いてた。もう汗だくで、ず~っとフレディ・キングを練習するわけ。なんでそんなに練習したかっていうと……あれ? こんなに喋っちゃってていいんですかね?

――いやいや、どうぞどうぞ!

じゃあお言葉に甘えて(笑)。ちょうどその頃、ピックから指(弾き)に変えたんですよ。ジョン・ハモンドっていう、中村とうようさんが『ニュー・ミュージック・マガジン』(現ミュージック・マガジン)で0点付けた白人のブルース・マンがいて、彼がインタビューで『指で弾くと指が固くなってピックが要らなくなるんだよ』って言っててさ、なるほどぉ、これだ!って思ったの。まぁ、実際はちょっと固くなる程度なんだけど。

――むしろ爪がどんどん薄くなりません? すぐ割れちゃって、僕は苦労しましたけど。

あ、違う。爪じゃなくて、こっち(指の肉の部分)で弾くの。それを習得するために、汗をだらだら流しながら練習したんだよね。

――なるほどぉ。吾妻さんのギターって、ものすごくアタックが強くて独特ですけど、あのピッキングのスタイルはそうやって生まれたんですね。

うん、そう。で、なんとか大学に入って、すぐに音楽サークルでバンドを再開するんだけど、その時期は今までで一番、ギターを弾きましたね。1日8時間とか。だから大学に行ってもず~っと部室にいたわけ。で、高校の時から一緒にやってたドラムのヤツが妹尾(隆一郎)さんと知り合いで、ジューク・ジョイント・ブルース・バンドで叩いていて『吾妻も次郎吉(東京・高円寺のライヴ・ハウス)のセッションに来てみろよ』って誘ってくれてね。で、セッションに参加したら、妹尾さんが『キミはなかなか面白いねぇ』と。それでご一緒させてもらうことになったんですよ。だから、こうやって人前でギターを弾けるようになったのも妹尾さんのおかげですね。

――それもハードな練習の賜物ですかね。

う~ん、妹尾さんが何を気に入ってくれたのかは分からないけど、とにかくギターしかなかったからね、その頃の俺には。まだガールフレンドもいない頃だから、人生で一番好きなものだったんですよ。ギターが。まぁ、そのあと、ちょっと弾かなくなったりするんだけど。

――彼女もできて?

それが意外な展開で……まぁそれはどうでもいい(笑)

――そうやって妹尾さんのような先輩に認められて、プロになることを考えなかったんですか?

うん、ない。あのね、バカにしないでくださいね。ね? 当時、大学2年ぐらいまでは、俺は特許を取って左ウチワで暮らすんだ、なんて思ってたんだよ(笑)。経済的に余裕があれば、音楽も好きなようにできるだろう、と。

――ははは。ところで、特許って?

あ、俺、理数系だから。ところが、大学の理工系の演習でショッキングなことがあってさ。ぐわ~っと必死になって、1時間10分ぐらいかけて問題を解いて達成感バッチリだったんだけど、隣のヤツは10分で解いたって言うわけ。なんだとぉ!ってことで解き方を聞いたら、もう発想が違うんだね。俺は馬車馬のようにがむしゃらにやるだけで、アイディアがないわけ。あぁ、こりゃ無理だわ、才能ないわと思って、そこからさらにバンドにのめり込んでいくわけですよ。で、永井(隆)さんとブルーヘヴンをやってる頃に、プロになろう、と。4年の秋ですね。で、『母さん、俺、プロになるよ』と言ったら、母が玄関でヨヨヨと泣き崩れまして、『夫を早くに亡くし、お兄ちゃんはミュージシャン。そして、お前までも……』と(笑)。さすがに申し訳ないと思い、『母さん、1年だけやらせてくれ』ということで続けまして、ブルーヘヴンがレコード・デビューすることになり、その記事が新聞に載ったりもしたんだけど、さすがに爆発的に売れるわけもなく、悩んだ末にブルーヘヴンを辞めて、就職することにしたわけですね。

前のページ (ページ:1/6) 次のページ